虚子の句碑探し

高浜虚子が初めて新潟を訪れたのは大正2年(1913年)のことでした。

新潟から弥彦をへて、俳句の指導を頼まれていた出雲崎の佐藤耐雪を訪ねています。

来県の最後は昭和32年で、「行形亭」や「かき正」で句会を開きました。

これが亡くなる2年前であり、来県16回めにあたります。




大正12年9月1日に関東大震災が起きます。

この時虚子の自宅にあった「ホトトギス」のバックナンバーが全部焼けてしまいました。

前出の佐藤耐雪は出雲崎で本屋を営んでおり、「ホトトギス」を全巻所有していました。

耐雪はこれを全部虚子に寄付しました。

そのお礼にと大正13年に虚子は新潟を経由して出雲崎を訪れました。

新潟では新潟医科大学で句会を開き、鍋茶屋で芸妓の踊りを楽しみ、

翌朝信濃川にかかる万代橋を歩きました。

当時の万代橋はまだ木の橋でした。

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その時に

「千二百七十歩なり 露の橋」と句を詠みました。

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その句碑が万代橋のたもとにあるホテルオークラの前にあります。

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虚子が亀田の町を始めて訪れたのは昭和12年です。

その後も何回か石山、北山、亀田の地を訪れておりますが、

亀田の佐藤暁華の爐で句会を開いた際に

「夏爐の火 燃えてをらねば 淋しくて」の句を詠みました。

これが船戸山の円満寺に句碑として残されています。

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前回の記事でも紹介した句碑で、

中田みずほ、高野素十、濱口今夜の3氏の句が虚子の句に並んで刻まれています。

下の集合写真は昭和13年5月に亀田通心寺での句会の折に撮られたものです。

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中央に座っている和服姿が虚子、左となりに中田みずほと高野素十、

ひとりおいて前列左端が佐藤暁華です。

虚子の右隣は虚子の息子の年尾、その右の眼鏡をかけているのが浜口今夜。

そのほかの面々については佐藤暁華の記事で紹介します。


句碑の三つめは西堀3番町の端光寺の境内にあります。

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「三羽居し 春の烏の 一羽居ず」

越後における虚子の三羽カラスと言われたのは中田みずほ、高野素十、浜口今夜ですが、

この句はその一人浜口今夜の死を悼んで詠んだ弔句になっています。



最後に虚子の句碑を紹介すると、

それは白山神社に

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隣接する「遊神亭」という園庭のなかにありました。

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虚子の 「早苗取り 今我方に 笠丸し」という句を中央に

中田みずほ 「学問の 静かに 雪の降るが好き」

高野素十 「十三夜 明日という空 美しき」

の二句が左右に配されています。

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今回は虚子が残した近隣の句碑を探して紹介しましたが、

次回は人となりや人物史について調べてみたいと思います。

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亀田の俳句:正岡子規

亀田は四国・松山ほどではないが、昔から俳句が盛んだ。

町内にある円満寺の境内に三名の俳句が一つの句碑に刻まれている。

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中田みずほ、高野素十(すじゅう)、浜口今夜の三名である。

三名とも東大医学部卒で新潟大学医学部の教授に赴任した先輩と後輩にあたる。

俳人としての彼らは高浜虚子を師として仰いでいる。


高浜虚子は近代俳句の立役者である正岡子規が発刊したホトトギスを継承し、

大正から昭和にかけて俳壇に君臨した人物だ。


この句碑を建立したのは亀田俳句の先駆者、佐藤暁華の子息である佐藤仁也さん。

そこで亀田俳句の歴史をその源流から

正岡子規⇒高浜虚子⇒中田みずほ⇒佐藤暁華とたどってみたい。



まずは正岡子規である。

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簡単に略歴を記すと、

慶応3年に伊予松山生まれ。明治17年東京大学予備門に入学した。

この時の同級生に塩原金之助(のちの夏目漱石)がいた。

ちなみに子規の年齢は明治の年数と合致するので、明治17年は子規17歳にあたる。

漱石とは落語の趣味が合い、一緒に寄席に通ったりして仲良くなり、生涯親交を深める。


明治22年、喀血が1週間続き、

「卯の花の散るまで鳴くか子規(ホトトギス)」と詠んだ。

血を吐くまで鳴き続けるホトトギスと自分を重ねあわせ、俳号を始めて子規とした。



明治23年、帝国大学哲学科に入学。(翌年国文科に転科)

この年の夏に松山へ帰省した際、東京帰りの学生仲間たちと松山の練兵場で

中学生が野球をしているのに出くわした。

子規は中学生からバットとボールを借り受け、学生仲間にノックした。

この時の中学生のひとりが高浜清(のちの虚子)であった。

虚子はこの始めての出会いを「子規居士と余」という本のなかで、

「その人は“失敬”と軽く言って余からその球を受け取った。

この“失敬”という一言は何となく人の心を惹きつける声であった」と書いている。



明治25年、学年試験に落第。試験のための勉強がいやになり、帝大を中退。

「新聞日本」社に入社し、俳句時評を担当した。



明治28年4月、日清戦争の従軍記者として旅順におもむく。

だが上陸した2日後に下関条約が調印されたため

同年5月、軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。

その船中で喀血し重体に陥り、神戸病院に入院した。

この時、高浜虚子や川東碧悟桐に看病された。

8月に松山へ一時帰省。実家には戻らず、

松山中学に在職中だった夏目漱石の下宿に転がりこんでいる。

東京にもどった子規は今度は腰部脊ずい炎を患い、歩行が困難になる。


この時、子規28歳、35歳で亡くなるまでの8年間はほとんど病床で過ごすことになる。

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だが執筆活動はおとろえることなく、「新聞日本」に「俳人蕪村」を連載したり、

「歌よみに与ふる書」を発表し、以て短歌革新に着手した。

松山で生まれた雑誌「ホトトギス」を東京で発刊した。主宰は子規で虚子が編集を担当した。

また子規の病床を訪れた伊藤佐千夫、長塚節などらの後進の指導も続けた。



明治35年、5月から9月にかけて最後の随筆「病床六尺」を新聞に連載した。

このころは寝た切りで、しかも寝返りも打てないほどの苦痛をおしての

執筆であったため、一部は口述筆記であったとされる。

そして9月19日未明に死亡、35歳。短い生涯であったが日本の近代文学に大きな功績を残した。

戒名は子規居士。



亀田俳句と直接つながりをもつことはなかったが、彼の「写生」(写実)の精神は

子規の後継者である虚子を通じて「客観写生」として亀田に受け継がれている。


子規雑駁

・「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた

漱石作「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。


・子規は2002年に野球殿堂入りを果たしている。

彼の幼名は升(のぼる)、この名にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことがあった。

ベースボールを野球(やきゅう)と訳したのは後の中馬庚という人だが、漢字表記は子規が最初。

また子規は野球の外来語を日本語に訳した。

バッター=打者、ランナー=走者、フォアボール=四球、ストレート=直球といった具合だ。

野球が日本に入ってきたころは熱心な選手で、捕手をしていた。

野球に関係のある句や歌も多く、文学を通じて野球の普及に貢献した。

それやこれやが認められての殿堂入りであったようだ。


・辞世の句

「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

子規の忌日9月19日を糸瓜忌と言う。


・江戸期の文献を漁って忘れられていた俳人、与謝蕪村を発掘した。

「新聞日本」紙上の文芸欄で蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」の句と

芭蕉の「五月雨をあつめてはやし最上川」の句を対比し、

蕪村の写生の方に軍配を揚げ絶賛し、世間に衝撃を与えた。

これは司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも取り上げられている。


・司馬遼太郎原作のNHK大河ドラマ「坂の上の雲」は2003年に放映された。

主人公の秋山兄弟には阿部寛と本木雅弘が配役され、子規は香川照之がなった。

坊主頭と額の出具合など本人に似ていた。夏目漱石は小沢征悦。

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子規を知るための映像媒体としてお勧めしたい。

ほかの著作としては関川夏央が書いた「子規、最後の八年」が面白い。

読んではいませんが、高浜虚子が書いた「回想子規・漱石」という本もあります。(岩波新書)



梅の香り、梅まつり藤五郎

梅まつりで最初に思い浮かべるのは、江戸時代、徳川斉昭が作った水戸の偕楽園でしょう。

梅酒と梅干なら紀州の南高梅がブランドになっています。

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知名度はローカルですが、亀田の藤五郎梅も捨てたものではありません。

亀田では町おこしの一環として15年前から梅林をめぐる梅まつりを企画しています。

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すっかり住宅地に囲まれたり、郊外型の専門ショップが軒を並べたその通りの裏側では、

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どっこい、梅林が健在です。

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まち歩きガイドブックでは藤五郎梅の歴史をこのように紹介しています。

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 江戸時代の終わり頃、旧亀田町荻曽根の青果問屋、宇野藤五郎が観賞用に植えていた

梅の実を市に出したところ、「果汁が多く、肉厚で大玉だ」と好評を博し、

藤五郎梅と呼ばれるようになったと言われています。

 また、現在の「藤五郎梅」は明治の終わりころに、宇野節次郎(屋号 藤五郎)が

千葉県水戸市から優良苗を持ち帰り、選抜した品種とされ、

この梅を新潟市内で売り歩くうちに、品質が特に優れていたため、

時の県令がこの梅を「藤五郎梅」と命名したとされます。

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江南区役所の庭にはこの藤五郎梅の古木が保存されています。

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梅まつりと亀田まち歩きコースは、昨年2回ほどRay次郎がガイドをつとめました。

亀田駅から歩きはじめ約7キロ、2時間30分のコースです。

最初は旧商店街を歩き、亀田町の成り立ちや栗ノ木川の舟運の歴史、

円満寺に残る俳句の句碑から、正岡子規にまでさかのぼる亀田俳句の歴史を解説しました。


梅が主役ですから、梅林もそぞろ歩き、青空にピンクの花がきれいでした。


今年は町あるきガイドのお呼びがなく、ひとりで歩いてみました。

梅の木を伐採したあとに、薪づくりをしている作業員を見かけました。

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梅林の近くにある「雪国科学」という会社の作業員です。

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地元の人なら新聞広告などでよくご存じだとは思いますが、

融雪工事をしたり、薪ストーブを販売している会社です。

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薪も販売しています。


Ray次郎も8年間、雪国科学の薪ストーブを自宅に設置していました。

梅やリンゴの木の薪はほんのり香りがあるといわれていますが、

焚いたことはなかったので真偽のほどは分かりません。

残念ながら今シーズンから自宅には薪ストーブの姿はありません。

代わりに孫のSOTAの遊び場所が広くなりました。


話が逸れましたが、亀田の梅まつりは今週いっぱい開催しています。

桜の花見の前にぜひ梅の花見を楽しんではいかがでしょうか。





プロフィール

Ray次郎

Author:Ray次郎
越後生まれのRay次郎。
リタイヤを機に
あれこれと始めた
後半人生の旅の記録

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