佐野藤三郎学:街道をゆく

亀田郷土地改良区が発刊した「創立六十周年記念誌 水と土と農民」には

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最後の章で「亀田郷の原点ー佐野藤三郎とその時代ー」と題して

佐野が昭和30年、土地改良区の理事長に33歳の若さで就任してから、

平成6年に72歳で急逝するまでの彼の歩みと業績を描いている。

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(就任して間もない頃の佐野藤三郎。昭和32年5月1日、メーデー)




その最終章は以下の文章で終わっている。

「平成6年3月24日夜、東京銀座の丸の内ホテルで、土地改良事業に対する

佐野藤三郎理事長の多大な功績を表彰する農林水産大臣賞の

授与式典が挙行された。

受賞したのは大臣賞の中でも最高位のダイヤモンド賞である。

全国からお祝いに馳せ参じた土地改良関係者でホテル会場は埋め尽くされた。

祝賀の乾杯の嵐を佐野理事長は、満面の笑顔でうけ喜悦の絶頂にあった。

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(祝賀会での佐野藤三郎)


その後、式典閉会後の深夜、宿泊ホテルの階段下フロアで、意識不明の

重体状態となった理事長が発見され、駿河台の日大病院へと救急搬送された。

しかし翌3月二25日午前11時15分、新潟市からかけつけた妻ミツイさんら

家族に見守られる中で、静かに息をひきとった。

死因は頭蓋骨折と外傷性くも膜下出血。享年72歳。まさに元気旺盛の中で、

忽然とその雄姿を消してしまった。」




生前の佐野藤三郎から話を聞いて本に著した小説家がいる。

昭和52年ころの司馬遼太郎。

佐野がでてくるのは「街道をゆく 9 信州佐久平のみち 潟のみち」。

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抜粋すると、

「亀田郷には、佐野藤三郎という大変な傑物がいるということは、

かねてからきいていた。土地の出身で、子供のころから湛水の田に入り、

くびまで浸かって田の仕事をしてきた、陸地化したこんにち、亀田郷そのものを

一種の非政治的コミューンのように仕立てあげ、

いろんな意味できわだった運営をしている人である」

司馬遼太郎は「芦沼」と題するモノクロの記録映画を観て、

「映画を見了えたとき、しばらくぼう然とした。食を得るというただ一つの目的のために

これほどはげしく肉体をいじめる作業というのは、さらにそれを生涯

くりかえすという生産は、世界でも類がないのではないか。」

という感想を書いている。

ちなみにこの記録映画は江南区資料館で常時上映されており、

司馬遼太郎の文章もスクリーン近くに掲載されている。


そしていよいよ司馬遼太郎が佐野藤三郎と対面する場面では、

「応接室に、理事長の佐野藤三郎氏が、勢いよく入ってきた。

白い開襟シャツに包んだ肩の肉がレスラーのように

ずしりと盛り上がっている。、、、、」

彼の話を聞いていくうちに、

「亀田郷土地改良区を運営しているこの佐野藤三郎という理事長さんは、

そういう複雑な現在の法社会や経済社会の現実の上に立って、

一種超然としながらも、それらの現実を操作して、日本国の行政のなかで

小さな『幕府』をつくっている。

ここでいう『幕府』とは、合法・非合法すれすれの実際的行政組織と

いうほどの意味である。」


このとき佐野藤三郎は50代半ば、レスラーのような身体で、

仕事も脂がのりきっていたのだろう。



「潟のみち」では幕末の洋学者佐久間象山が亀田から舟に乗って旅をした際に

残した漢詩を取り上げている。

象山の詩のなかで詠われている風景を、先ほど観た記録映画と重ねあわせて、

「その映画の中の荒涼とした沼と洲の光景を

象山がみて詩にしたかと思えるほどである」と書いた。

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(江戸期、亀田八景「乗落の帰帆」 現在の排水路公園の西端にかかる峰橋付近)


「潟のみち」編で司馬遼太郎が歩いたのは、亀田町⇒鳥屋野潟⇒木崎⇒

新津⇒五泉⇒村松町⇒上杉川であった。


さすが名を成した小説家、歴史家である司馬遼太郎が書いた亀田郷は、

行政や公共機関が発刊した歴史書にはない、歴史の拡がりと深い洞察力がある。

亀田郷の記述は文庫本で約50ページほどなので、

ぜひ、ご一読することをお勧めしたい。
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佐野藤三郎学:亀田義塾

亀田学会という会がある。亀田について、その歴史や文化を研究する会だ。

その会が亀田郷についての知識・哲学を学ぶ講座、

「亀田義塾」を開講している。(聴講費¥500円)

第4期にあたる今年のテーマは「亀田郷をつくった人々」

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各月のテーマは

5月、「ワールドカップ新潟大会における『おもてなし』
   講師:上山 寛 / 上山アトリエ代表

6月、「亀田郷の大地で農業と共に生きる」
   講師:杉本克己 / ㈱亀田郷農産物直売所 社長

7月、「佐野藤三郎学」
   講師:藤井大三郎 / 田園まちづくりアドバイザー

9月、「新発田藩の憂鬱と松ヶ崎開削」
   講師:本田典光 / 亀田学会水環境研究員

10月、「亀田郷の食文化」
    講師:古野間 久嗣 / 日本料理店「倉久」店主

11月、「亀田郷の防災」
    講師:斎藤 昭 / 江南区郷土資料館館長

12月、「亀田郷の伝統的建築物の保存と再生」
    講師:伊藤 純一 / 新潟まち遺産の会事務局

などなど、多彩である。



7月12日の亀田義塾に出席して講話を聴いた。

今回のテーマは亀田郷土地改良区の理事長として

多大な功績を残した佐野藤三郎について。


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講師は佐野藤三郎から永年まじかに教えを受けた、藤井大三郎さん。

亀田郷土地改良区で事務局長をされた方で、今は新潟市役所内の

都市政策部で「田園まちづくりアドバイザー」をされている。

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昨年も佐野学について語られたが、前回は彼の生い立ちから始まり、

芦沼とよばれた亀田郷の田んぼをいかに美田に変えたか、

新潟地震の被害や地盤沈下問題にどう立ち向かったか、

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(新潟地震後、新潟県農地部長に河川改修を要望する佐野藤三郎)

倒産寸前の土地改良区の財政をどう立ち直らせていったかなどであった。



今回は彼が晩年、力をそそいだバイオマス事業についての講話である。

再生可能資源を活用することにより、地球温暖化対策と未来農業の姿を目指す

事業の理念とその技術の紹介が、その主な内容であった。

バイオマス画像2

バイオマスを簡単にイラストで表すと上の絵になる。

佐野藤三郎は、減反対象の田んぼや耕作放棄地などに

サトウモロコシを植えて収穫したり、稲刈後の稲ワラを利用して、

バイオマス燃料として活用することを考えた。

実際、平成3年には大江山地区の田んぼにサトウモロコシを植え、

三菱重工業・広島工場で再生プラントを製作し、バイオマス生成の実験を行った。

10Rの田んぼから米であれば600kgしか収穫しないが、

サトウモロコシはその20倍の12トン収穫できる。

亀田郷で回収可能な稲ワラ3,000トンを再生利用すれば、

935キロリットルのメタノールを生成できることも分かった。



平成6年に佐野藤三郎は急逝するが、彼が取り組んだバイオマス事業は

新潟県が進めるバイオマス・ニイガタ ~21世紀のエネルギーは農地から~や

全国土地改良事業団体連合会が進める水・土・里ネット ~地域資源管理~

などの形で、現在でも脈々と引き継がれている。

『タウンウオークかめだ』設立総会

前回6月28日に開かれた『タウンウオークかめだ』設立準備会での討議を踏まえ、

事務局で会の規約、年間活動計画を作成しました。

7月11日(土)亀田駅前❝粋や❞で設立総会を開催し、

いずれも全会一致で承認されました。

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で、さっそく懇親会に突入し(早っ!)、生ビールで乾杯!!


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初めての呑み会とは思えないような盛り上がりで、

飲んでしゃべって、笑って食べて、また飲んで、、

2時間半があっと言う間に過ぎました。


次回の活動はJR亀田主催の『江南区の隠れた名祭 勇壮の袋津祭りを歩く』で

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駅からハイキングをガイドデビューします。

亀田の俳句:中田みずほⅠ

新潟市中央図書館“ほんぽーと”の2階特別展示室では「五人が語るふるさと」と題し

新潟にゆかりの深い五人の物故文学者を紹介している。

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坂口安吾、会津八一、吉屋信子、鷲尾雨工、そして中田みずほである。

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みずほ以外の四人は文学をその生業としている職業作家であるのに対し、

みずほは脳外科を専門とする医学者である。

新潟にあった医科専門学校が医科大学に変わるのを機に助教授として大正11年に赴任した。

東京帝国大学医科の教員教授の推薦を受けてのことであった。

赴任した二年後の大正13年、みずほに海外留学の辞令が下り、一般外科学研修のため、

およそ二年半にわたりドイツ、オーストリア、フランスへ出張することになった。

結婚後六年目のことであった。

幼い二児を抱えた妻を新潟の地に残していかねばならなかった。

この期間をのぞいて、みずほは約半世紀にわたって新潟市内の借家に住み続けた。

したがって生まれた土地ではないが、新潟が「ふるさと」には相違なく、

ほかの四人と並んで、その名を連ねても何の不思議もない。

特別展示室にあるみずほの棚に、

平成9年(1997年)発行の文芸春秋別冊7月号が置いてある。

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その雑誌に小説家・内海隆一郎が「静かに雪の降るは好き」と題して

中田みずほの評伝小説を掲載している。目次にある題名の右には

「日本で初めて脳腫瘍手術に成功、

日本の脳外科を世界の水準に押し上げた中田瑞穂の生き方。

彼のひたむきな人生を支えたものは、俳人としての写生の精神であった」の説明文がある。

180枚の大作であるが、貸出していないので「館内」でしか読めない。

ここではこの大作からRay次郎が抜粋したり、割愛したり、

また記述の順番を入れ替えたりして記事にまとめた。


・昭和28年4月24日 中田みずほは60歳を迎えた。

還暦を記念して「刈上」という句集を上梓した。

題名をこれにしたのは姓名が稲にまつわることに因んだ。

中の田の稲穂もこの辺でいよいよ刈り上げにしようか、という洒落らしい。

父親と長兄がともに54歳で亡くなっているので、

自分もあまり長生きはできまいと考えていたが、

その4日後、みずほは夜更けに軽い発作をおこした。

脳神経外科を専門とするみずほは自分の身体の異変を脳の血管障害とみずから診断した。

それから22年を経た昭和50年、みずほは82歳でその生涯を終えた。


・みずほは明治26年、山口県津和野市に、父、開業医の中田和居(よしおり)と

母ヒデの子四人(兄二人、姉一人)の末子として生まれた。本名は瑞穂。


同郷の人には森鴎外がいる。東京帝国大学医学部の先輩にもあたる鴎外は医学者になり、

陸軍で軍医総監、医務局長になったが、一方で多くの文学作品を残した。

森鴎外


医学と文学を極めようとするその生き方はみずほの姿と重なるような気がする。



さて、父和居は明治37年、日露戦争が始まると間もなく津和野町長に選出された。

その父は明治40年に肝臓癌で亡くなった。父が亡くなった日、

二人の兄は東京の学校から駆け付ける途中で、家には母と姉そしてみずほの三人だけだった。

父の遺体はその日のうちに解剖に処された。これは和居の生前からの遺志であった。

亡くなる前に自分の癌の状態を予想して図に示し、

死後かならず解剖して病根を確かめるようにと親しい医師たちに言い残していた。

母と姉は遠慮したので、みずほが遺族代表として解剖に立ち合った。

みずほ14歳のときである。肝臓はもちろん大腸、直腸、心臓まで遺体から切り出され、

そして縫い閉じられた。その一部始終をみずほは見ていた。

大正6年、東京帝国大学医学部を卒業、以降外科教室の近藤次繁教授のもとで外科学を

専攻し、副手、助手、医局長を務めた。

大正9年、北村萋子(しげこ)と結婚する。彼女は中野で印刷工場を営む家の

長女でみずほは女学校に通う彼女の家庭教師として勉強を見ていた。

それが縁での恋愛結婚である。

萋子は二十歳になったばかりの才気活発な新妻であった。

大正10年、近藤教授の勧めで新潟大学医科大学へ助教授として赴任することが決まった。

大正11年2月、みずほと萋子は前年に生まれたばかりの長男紳一郎を

伴って新潟駅にたどり着いた。上野駅から長野まわりの信越線で、

雪景色


途中関山駅で大雪のため立ち往生、

さらに大雪に阻まれたため約五時間も遅れての到着であった。

新潟の町も深い雪におおわれていた。

その日から新潟におけるみずほの医学研究と中田家の生活が始まった。

昭和9年の晩春、みずほ41歳の時、妻萋子(しげこ)が35歳の若さで亡くなった。

結核性の痔疾が原因だった。亡くなる2年前から病床にあった萋子の看病と

幼い子供たち3人の世話をするため、佐藤念腹の紹介で21歳になるとめのを雇っていた。

彼女はその後みずほの姉から引き取った老母の世話もし、

5年間「ねえや」と呼ばれて中田家で生活した。

みずほは亡き妻が病床にあった時に遺した

「とめのを後添いに迎えてほしい」という言葉に従って、

三回忌を過ぎた昭和12年、26歳のとめのを後妻に迎えた。

みずほ40歳からの10年間で家庭内はこのように揺れ動いたが、

仕事は絶頂期を迎えていた。

研究室


昭和11年には日本で初めて脳腫瘍の手術に成功し、

同じ年に文部省在外研究員として、ふたたびアメリカとヨーロッパへ出張している。

帰国後は彼の行った脳腫瘍手術に注目が集まり、

方々の大学から脳外科の専門家たちが新潟医科大学を訪れ始めた。

当時の脳外科の世界を、

「昭和の名医15人 現代につなぐ医の心」 水野 肇著で読んでみると、

昭和の名医

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 「かつて日本の脳外科の世界では『新潟詣で』という言葉があった。

日本の医学は、東京大学医学部が中心で、権威はすべて、東大に集まっていた。

ところが脳外科だけは、中田瑞穂教授によって新潟で進歩発展させられたため、

脳外科を志す外科医は、まず新潟医大を訪ねて、

中田教授の手術を見学して教えを受けたところから始まった言葉である。

 しかし中田教授は、この言葉を嫌っていた。

『学者がお互いに勉強するのは当然のことだ』といっていた。

それでも『新潟詣で』は、医学会では厳然とした事実であった。

やはり新潟医大こそ、日本の脳外科の発祥の地というべきだろうし、

中田教授は『日本の脳外科の父』ということになるだろう。」

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その後のみずほの医学関係の略年譜は

昭和22年(54歳)東京帝大医学部から教授として赴任するよう要請があったが、
          研究ができないとして断った。
          
          「学問の 静かに雪の 降るは好き」 とホトトギスに発表したのは
          この年のことである。

          帝大の教授就任の要請を断り、この地、雪深い新潟で研究をするという
          静かだが一途な覚悟を感じさせる。         

          日本で初めての脳外科手術書、『脳手術』を南山堂より出版。

          日本で初めての脳手術の手引書としてバイブルとなった。

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昭和23年(55歳) 第48回日本外科学会総会が新潟で開催され、
           みずほは会長として講演をおこなう。

           その会期中に第1回日本脳外科研究会設立総会を開催。


昭和24年(56歳) 医学書「脳腫瘍」を刊行。


昭和25年(57歳) 脳神経外科研究に対して第3回新潟日報文化賞を受賞。

昭和30年(63歳) 新潟大学を定年退職し新潟大学名誉教授となる。

           同時に「新潟大学脳研究室」が設けられ初代室長となる。

新潟大学脳研究所
  左から二番目がみずほ

彼が書き記した何十冊にものぼる研究ノートは、今もこの研究室に保存されている。

nakata note

昭和33年(65歳) 永年の脳研究で紫綬褒章を受章。

昭和34年(66歳) 高浜虚子逝去。新潟大学脳研究施設長を退任。

昭和42年(74歳) 文化功労者に選ばれる。

            近年では長嶋茂雄や宮崎駿、樋口久子など幅広い分野から
            受賞者が選ばれているが、当時は専門分野を極めた学者や
            文化人が多く、受賞者数も10人前後と近年の半分であった。
            この年の前後で受賞したのは、東山魁夷、井伏鱒二、諸橋轍次など。

昭和43年(75歳) 日本学士院会員となる。




昭和50年4月、82歳になったみずほは新潟大学脳研究所の所長になっていた。

みずほは研究室の自室に、かっての教え子である脳研の教授・生田房弘を招き、

1通の封筒を手渡した。

「小生遺体解剖の際、脳、延髄を脛髄上部とともに取り出し、

推定の病巣を中心にお調べくださるようお願いしておきます。」

みずからの遺体の解剖を依頼したのである。

その年の8月18日、持病の胆石症から胆嚢炎に膵臓炎を併発し、

みずほは新潟市西大畑の自宅で、午後9時20分に息を引き取った。

そして生田は師の遺志に従ってみずほの解剖を行っている。

それは68年前にみずほの父・和居が処した死に様と同じであった。



そして生誕百年記念で津和野町旧邸に記念碑が、

津和野生誕地

「脳外科の父 中田瑞穂先生 生誕の地」 津和野

旧居


新潟大学医学部には句碑が建立された。

その句はもちろん「学問の 静かに雪の 降るは好き」である。

新潟大学句碑


みずほは西堀通り四番町の法音寺に今も静かに眠っている。



次回はみずほの俳句に焦点をあてて記事を書きます。



プロフィール

Ray次郎

Author:Ray次郎
越後生まれのRay次郎。
リタイヤを機に
あれこれと始めた
後半人生の旅の記録

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