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保、新矢そして尾崎の事

3月13日(金) チェンナイにて

あらかじめお断りしておきます。

この記事にはすべて実名が出ますので、名前が出た方、あらかじめご容赦を。


串田保とは亀田中学校の1年次に同級生になった。

やんちゃ坊主で、笑わせ上手だった。キツネのような目をした細身の少年。

Ray次郎は今でこそ借りてきた猫のようにおとなしいが、

保と同じく、やんちゃで気が合った。

毎朝、通学時にRay次郎がまず実の家へ行く。

実の家は左官屋、自宅のわきに作業小屋と道具置き場があった。

彼は三男坊で歳の離れた兄貴は左官屋を継いでいた。

二人で保の家へ行き、三人そろって高下駄を鳴らしながら中学校へ行った。

保の両親はふたりで衣服の行商人をしていた。

保とは悪い事も一緒になってやった。町の映画館の裏口の鉄条網をくぐって忍び込み、

石原裕次郎や小林旭の映画をただで観させてもらった。

北山の裏手にある畑で西瓜をくすねた。


彼は新潟市内の商業高校へ入り、Ray次郎は進学校の新潟高校に入ったので、

高校時代は付き合いが遠ざかっていた。

保は高校卒業後、新潟市内の呉服屋「嶋屋」に勤めた。

Ray次郎が大学1年の夏に帰省した時、家に保がひょっこり顔を出して

「ドライブに行こう」と誘ってきた。もう夜もかなり更けていた時間だったと思う。

彼は月賦で買った中古のサニーにRay次郎を乗せて、国道49号線に向かった。

阿賀野川とほぼ平行して走る会津若松への道路。川の蛇行に合わせて道も蛇行している。

その道を猛スピードで走る。道路の照明も暗く、ガードにぶつかれば、すぐ川に落ちる。

今思えばかなり危険な運転だった。


彼は30代で独立し、自宅に「串田呉服店」の看板を掲げた。

そして40代で癌で亡くなった。早すぎる死だった。






山田新矢とは高校時代にラグビー部で一緒だった。

身長は155センチくらい、小太りして丸顔、人懐っこい笑顔をみせる高校生。

ラグビー部の同期のなかでもけっこう足が速く、ハーフのポジションについた。

スクラムへボールを入れ、うしろで受けるとバックスへ送球する攻撃の起点のポジション。

Ray次郎はそのハーフから最初にボールを受けるスタンドオフ。

ラグビー用語ではハーフ団と呼ばれる。

新矢は上の学年がいなくなってキャプテンになった。Ray次郎は副キャプテン。

練習でも試合でも檄を飛ばして怖い顔をするが、

普段は冗談好きで、いつも笑顔が絶えなかった。だからキャプテンに選ばれたのだろう。


新矢は大学卒業後、家業の塗料店に入り、50代で社長になっていた。

10年ほど前、新矢の呼びかけで久しぶりに同期のラグビー部の連中で飲んだ。

新矢はいつもの笑顔で人をなごませ、終始ご機嫌だった。みんなで多いに盛り上がった。

翌年の年賀状に喉頭がんの手術をして、今は順調に回復していると書いてあった。

あの集まりは手術前に新矢がやっておきたいとことだったんだと、納得した。



それから2年くらいして電話があり、今度は声帯を取り除く手術をすると連絡があった。

次に会った時には喉に穴が開いていて、筆談で話をした。

近所のおばちゃん連中を引き連れて山菜採りをしたとか、

商売が苦しくて倉庫を手放したとか、そんな話をした覚えがある。

筆談で話をしたのは声帯切除の手術後の半年間で3~4回。

そして新矢は60を目前にして亡くなった。

いい奴だった。今でもあの人懐っこい笑顔が目に浮かぶ。






尾崎邦明

彼とは新潟高校の3学年で初めて同級生になった。

色白い顔をして、運動音痴。ときどき皮肉なジョークを言うくらいで、

話上手なわけでもなく、会話の中心にいることはなかった。

Ray次郎はラグビー部、尾崎は生物部か何かの帰宅部だった。

だから彼とは高校時代の接点は少ない。


安田講堂事件で東大の入試試験が取りやめになった年に、

尾崎は早稲田の文学部に現役入学した。Ray次郎はすべて落ち、あえなく浪人。

Ray次郎が翌年、早稲田の商学部に入学すると、1年後輩ではあるが尾崎とは御学友になった。

Ray次郎が大学3年、尾崎が4年になった春に、いきさつは忘れたが、

尾崎がRay次郎のアパートに引っ越してきた。

都電の面影橋から徒歩10分、大学へは歩いて行ける。4畳半で流しは付いているが、風呂なし、

廊下に共同便所があるアパートだった。2階の4部屋のうち一つ部屋を挟んで2年間一緒に住んだ。

引っ越す前からだったとは思うが、性格は違うが、けっこう気があって仲は良かった。

尾崎がRay次郎の部屋に来る時は麻雀のメンツが足りない時、

Ray次郎が尾崎の部屋へ行く時は金を借りにいくか、

挽きたてのコーヒーを飲ませてもらう時。



Ray次郎は大学4年で卒業してアパートを出た。尾崎は留年したが、やはりアパートを出た。

高校時代の友達・藤崎が鴻巣に一戸建て住宅を購入して住んでいた。

そこへ尾崎は転がり込んだ。

尾崎の後釜でアパートに入ったのはラグビー部・後輩の田宮。

田宮は早稲田の理工学部、のちに新潟県庁で土木部長になった男だ。


藤崎は同じ高校3年次の同級生。頭が良くて一ツ橋を受験したが、

東大のあおりを受けて不合格。上智大学の文学部・露西亜語学科に入学した。

和楽部に入部し琴を奏でていたが、ロシア語よりそっちに目覚め、芸大に入りなおした。

尾崎が転がり込んだ時、藤崎はおそらく芸大生だったと思うが、

彼が鴻巣に自宅を構えていた謎も含め、今は覚えていない。


とにかく尾崎は大学7年か8年で卒業するまで、鴻巣で藤崎と一緒に暮らしていた。

彼は就職先にNHKを希望していたが叶わず、鴻巣から地元新潟に戻った。

そして親類が経営している会計事務所に勤めた。


Ray次郎の姥ケ山の自宅に1回だけ遊びに来たことがある。

ワインをぶら下げてきて、ペロッと飲んで帰った。

毎年の年賀状の代わりに、年末に手紙が届く。文学部卒だけあって文章は上手いが

少しくどいところもあって正直、感心できなかった。


ど近眼なくせにメガネをかけず、おそらく10m先は霞状態だったと思う。

社会人になってからは酒の量が増えたのだろう、

町中で50代の尾崎の姿を目にした時、かなり太っていた。

猫背で脇目もふらずに、せかせかと歩ていた。



尾崎は60を過ぎてすぐ亡くなった。両親はすでになく、独身の彼は一人暮らし。

友達のだれに通知されることもなく葬儀が執り行われた。

尾崎の数少ない友達の一人がたまたま地元紙で「おくやみ」欄を読んで、

尾崎邦明の名前を見つけた。

後から聞いた話では肝臓が弱っていて、それが原因だったようだ。

誰にみとられたわけでなく、自宅の部屋で孤独死であった。



尾崎の初盆の前にRay次郎は尾崎の友人たちに手紙を書いた。

「尾崎の供養をしないと、喉仏に小魚の骨がささったままで、落ち着きません。

、、、、8月某日、西区▲▲▲寺にお集まりください。

その後古町の割烹△△△で1周忌の法事を行いますので、

そちらの参加のみでもオーケーです。、、、、」

こんな内容だったと記憶している。


集まりには悟、栗、野上、見田、有司、稲田、関根、種田など地元の同級生組と、

鴻巣から藤崎も駆けつけてくれた。



記憶だけで書いているので彼らのことはいくつか間違えていると思う。

しかし彼らの顔は今でもはっきりと思い出すことができる。



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No title

関係ないのに、最後まで読んでしまいました。
無駄のない文章で、新田次郎に似てなくはないが引き付ける力があります。
このまま、ブログを更新していきませんか?
せっかく、皆さんも楽しみになってしまったのだから・・・・・・・・。
ブログを、開いてしまう癖が治りません何とかして下さい。

                             椎谷
プロフィール

Ray次郎

Author:Ray次郎
越後生まれのRay次郎。
リタイヤを機に
あれこれと始めた
後半人生の旅の記録

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