スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

亀田の俳句:正岡子規

亀田は四国・松山ほどではないが、昔から俳句が盛んだ。

町内にある円満寺の境内に三名の俳句が一つの句碑に刻まれている。

DSC03776.jpg


DSC03772.jpg

中田みずほ、高野素十(すじゅう)、浜口今夜の三名である。

三名とも東大医学部卒で新潟大学医学部の教授に赴任した先輩と後輩にあたる。

俳人としての彼らは高浜虚子を師として仰いでいる。


高浜虚子は近代俳句の立役者である正岡子規が発刊したホトトギスを継承し、

大正から昭和にかけて俳壇に君臨した人物だ。


この句碑を建立したのは亀田俳句の先駆者、佐藤暁華の子息である佐藤仁也さん。

そこで亀田俳句の歴史をその源流から

正岡子規⇒高浜虚子⇒中田みずほ⇒佐藤暁華とたどってみたい。



まずは正岡子規である。

400px-Masaoka_Shiki.jpg


簡単に略歴を記すと、

慶応3年に伊予松山生まれ。明治17年東京大学予備門に入学した。

この時の同級生に塩原金之助(のちの夏目漱石)がいた。

ちなみに子規の年齢は明治の年数と合致するので、明治17年は子規17歳にあたる。

漱石とは落語の趣味が合い、一緒に寄席に通ったりして仲良くなり、生涯親交を深める。


明治22年、喀血が1週間続き、

「卯の花の散るまで鳴くか子規(ホトトギス)」と詠んだ。

血を吐くまで鳴き続けるホトトギスと自分を重ねあわせ、俳号を始めて子規とした。



明治23年、帝国大学哲学科に入学。(翌年国文科に転科)

この年の夏に松山へ帰省した際、東京帰りの学生仲間たちと松山の練兵場で

中学生が野球をしているのに出くわした。

子規は中学生からバットとボールを借り受け、学生仲間にノックした。

この時の中学生のひとりが高浜清(のちの虚子)であった。

虚子はこの始めての出会いを「子規居士と余」という本のなかで、

「その人は“失敬”と軽く言って余からその球を受け取った。

この“失敬”という一言は何となく人の心を惹きつける声であった」と書いている。



明治25年、学年試験に落第。試験のための勉強がいやになり、帝大を中退。

「新聞日本」社に入社し、俳句時評を担当した。



明治28年4月、日清戦争の従軍記者として旅順におもむく。

だが上陸した2日後に下関条約が調印されたため

同年5月、軍医部長の森林太郎(鴎外)等に挨拶をして帰国の途についた。

その船中で喀血し重体に陥り、神戸病院に入院した。

この時、高浜虚子や川東碧悟桐に看病された。

8月に松山へ一時帰省。実家には戻らず、

松山中学に在職中だった夏目漱石の下宿に転がりこんでいる。

東京にもどった子規は今度は腰部脊ずい炎を患い、歩行が困難になる。


この時、子規28歳、35歳で亡くなるまでの8年間はほとんど病床で過ごすことになる。

th1QHXXJKC.jpg


だが執筆活動はおとろえることなく、「新聞日本」に「俳人蕪村」を連載したり、

「歌よみに与ふる書」を発表し、以て短歌革新に着手した。

松山で生まれた雑誌「ホトトギス」を東京で発刊した。主宰は子規で虚子が編集を担当した。

また子規の病床を訪れた伊藤佐千夫、長塚節などらの後進の指導も続けた。



明治35年、5月から9月にかけて最後の随筆「病床六尺」を新聞に連載した。

このころは寝た切りで、しかも寝返りも打てないほどの苦痛をおしての

執筆であったため、一部は口述筆記であったとされる。

そして9月19日未明に死亡、35歳。短い生涯であったが日本の近代文学に大きな功績を残した。

戒名は子規居士。



亀田俳句と直接つながりをもつことはなかったが、彼の「写生」(写実)の精神は

子規の後継者である虚子を通じて「客観写生」として亀田に受け継がれている。


子規雑駁

・「柿くへば鐘が鳴るなり法隆寺」の名句は、療養生活の世話や奈良旅行を工面してくれた

漱石作「鐘つけば銀杏ちるなり建長寺」の句への返礼の句である。


・子規は2002年に野球殿堂入りを果たしている。

彼の幼名は升(のぼる)、この名にちなんで「野球(のぼーる)」という雅号を用いたことがあった。

ベースボールを野球(やきゅう)と訳したのは後の中馬庚という人だが、漢字表記は子規が最初。

また子規は野球の外来語を日本語に訳した。

バッター=打者、ランナー=走者、フォアボール=四球、ストレート=直球といった具合だ。

野球が日本に入ってきたころは熱心な選手で、捕手をしていた。

野球に関係のある句や歌も多く、文学を通じて野球の普及に貢献した。

それやこれやが認められての殿堂入りであったようだ。


・辞世の句

「糸瓜(へちま)咲て痰のつまりし仏かな」

「痰一斗糸瓜の水も間にあはず」

子規の忌日9月19日を糸瓜忌と言う。


・江戸期の文献を漁って忘れられていた俳人、与謝蕪村を発掘した。

「新聞日本」紙上の文芸欄で蕪村の「五月雨や大河を前に家二軒」の句と

芭蕉の「五月雨をあつめてはやし最上川」の句を対比し、

蕪村の写生の方に軍配を揚げ絶賛し、世間に衝撃を与えた。

これは司馬遼太郎の「坂の上の雲」でも取り上げられている。


・司馬遼太郎原作のNHK大河ドラマ「坂の上の雲」は2003年に放映された。

主人公の秋山兄弟には阿部寛と本木雅弘が配役され、子規は香川照之がなった。

坊主頭と額の出具合など本人に似ていた。夏目漱石は小沢征悦。

story07mainph.jpg


子規を知るための映像媒体としてお勧めしたい。

ほかの著作としては関川夏央が書いた「子規、最後の八年」が面白い。

読んではいませんが、高浜虚子が書いた「回想子規・漱石」という本もあります。(岩波新書)



スポンサーサイト

コメントの投稿

管理者にだけ表示を許可する

管理人のみ閲覧できます

このコメントは管理人のみ閲覧できます
プロフィール

Ray次郎

Author:Ray次郎
越後生まれのRay次郎。
リタイヤを機に
あれこれと始めた
後半人生の旅の記録

最新記事
最新コメント
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。