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亀田の俳句:高浜虚子

高浜虚子1



高浜虚子は明治7年(1974年)正岡子規と同じ松山市に生まれた。

そして昭和34年(1959年)、85歳で天寿を全うした。

師事した子規が35歳で早世したのに対しまことに長寿であった。


虚子は大正2年(1913年)に初めて新潟市を訪れました。

没する2年前の昭和32年まで16回にわたり新潟県を来訪。

うち4回、亀田町に足を踏み入れている。

亀田に最後に来たは昭和23年なので、亀田在住の俳句人で虚子の姿を目の当たりにした方が

まだご存命なはずだが、私は知らない。



さて、話は明治26年(虚子19歳)に戻ります。

虚子は同郷で仲が良かった河東碧悟桐と一緒に京都の第三高等学校へ進学します。

河東碧梧桐


翌年学科改変により二人とも仙台の第二高等学校へ転入します。

当初医師をめざしていた虚子は数学ができなかったこともあり、文学に転向します。

子規に文学を学んでともに身をたてようと、碧悟桐と一緒に学校を辞めて上京し、

根岸にある子規庵の近くに下宿して浪人生活を始めます。

子規庵


子規の病状は悪化する一方で、発行していたホトトギスも虚子に編集を

手伝ってもらったりしていましたが、明治35年に子規が亡くなると、

後継者に指名された虚子はホトトギスの発行責任者となります。

ところがこの文芸雑誌(当時は小説が主で俳句は少々)の売れ行きが芳しくありません。

虚子は妻(なんと碧悟桐の元許嫁)と次々生まれる子供(最終的には54歳の時に7人目)を抱え、

ホトトギスの収入が落ち込む中、下痢を繰り返し、胃を痛め、ノイローゼに陥ります。

同じころイギリス帰りの漱石もノイローゼになっていましたが、子規庵には顔を出していました。

そこで虚子に「気晴らしになるから」と勧められ、漱石は小説を書き始めます。

漱石は当初この「猫伝」もしくは「吾輩は猫である」という題名を決めかねていた処女作を

長く書くつもりはなかったが、虚子に題名は「吾輩は猫である」とし、

さらに続きを書くよう強く勧められた。

明治38年にホトトギスに掲載されたこの小説は、漱石を文壇への道を開かせることになりました。

漱石


直筆原稿
    『吾輩は猫である』の直筆原稿

漱石は明治40年には東京帝国大学の教師を辞し、朝日新聞に入社します。

『虞美人草』、『三四郎』、『それから』、『門』、『彼岸過迄』、『こころ』など彼の代表作となる

作品を次々と新聞紙上に掲載し、職業作家への道を歩き始めます。



一方、ホトトギスでは、明治39年に「坊ちゃん」が掲載され、発行部数を伸ばし

虚子はそれによりようやく一息つくことができました。

hototoh.jpg


その後ホトトギスは俳諧雑誌として全国に名を馳せ、虚子は子規の俳句を継承していきます。

すなわち子規が提唱した「写実主義」から「客観写生」と「花鳥諷詠」へと昇華させたのです。

これに共鳴した俳句詠みがつぎつぎと虚子に師事していきます。

俳壇即ホトトギスと言われるほどに勢力を伸ばし、虚子は俳壇に君臨する存在になっていきます。


photo-nakata_mizuho.jpg

大正初期、東大医学部に在籍していた中田瑞穂は、水原秋桜子(医学部血清学)、

山口誓子(法学部)らと東大俳句会を興します。

ここで虚子に師事し、さかんにホトトギスに投句。

大正11年、みずほが新潟医科大学(脳外科)に赴任すると、

虚子との師弟関係が新潟に持ち込まれました。

同年、浜口今夜が内科の助教授として新潟医科大学に赴任。みずほから俳句を教わります。



遅れること昭和10年、ドイツ留学を終えた高野素十が新潟医科大学に

法医学の教授として加わり、ここに虚子門下の「越後の三羽ガラス」がそろいました。

高野素十は東大俳句会ではみずほの1年後輩にあたります。

高野素十

虚子が来県する際はこの3名がほとんど付き添っています。




最後に虚子が越後とかかわった編年史を、

亀田図書館が作成した資料からかいつまんで列挙します。


大正 2年(1913):新潟市を訪ね、弥彦をへて出雲崎の佐藤耐雪を訪ねる。

大正13年(1924):新潟医大で俳句会。終了後鍋茶屋で会食

            翌朝、信濃川畔漫歩、霧深し。

            「千二百七十歩なり露の橋」 

昭和13年(1938):新潟医大にて講演。翌日から二日間佐渡観光。

            初めて亀田へ来訪。佐藤暁華の家で休憩後、通心寺にて句会。



昭和14年(1939):青森からの帰路、瀬波温泉泊後に新潟へ。

            亀田北山の村木花圃にて句会。

昭和18年(1943): 浜口今夜、腎結石にて死去。

            虚子は「三羽居し春の鴉の一羽居ず」と追悼句を読む。

           
昭和21年(1946):中田みずほと高野素十が小諸にいた虚子を訪ね、

            虚子の体調がすぐれなかったのを見て、新潟へ連れ帰り、
  
            新潟医科大学田坂内科に10日間入院。

            同じ年、亀田の亀山其園居にて新潟玉藻会の句会。

昭和23年(1948):亀山其園居にて新潟玉藻会の句会。

昭和30年(1955):古町「かき正」にて句謡会。

かき正

かき正句会


昭和32年(1957):最後の来県。古町「かき正」にて句謡会。行形亭にて招宴。

行形亭


昭和34年(1959):虚子没。85歳


次回は中田みずほについて。









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越後生まれのRay次郎。
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